物心ついた頃から不思議だった。
「何で生き物って動いてるの?」
小学校の図書室には、「まんがでわかるからだのはたらき」のような本がたくさんあった。
色々借りて読んだ。
心臓が動いて血が流れ、肺が膨らんだり縮んだりして息をして、胃が動いて消化して…
そんな仕組みが体にあるのはわかった。
でも、何で動いてるの?
ミニ四駆だったら部品を組み立てて、電池を入れれば動くけど、人間は何がきっかけで動くの?
どうして一度止まったら、どれだけ部品が揃っていても動かないの?
この疑問に答えてくれる本は一冊もなかった。
何か根源的なことがいつも気になる子供だったと思う。
でも、小学生の日々は遊びに忙しく、新しいマンガやゲーム、スポーツに明け暮れているうちに、そんな疑問は忘れた。
そんな疑問を忘れた私は、大学で言語を学んだ。たまたま選んだのが中国語だった。
すばらしい師にも出会った。ありったけの情熱とエネルギーを中国語に捧げている人だった。
ただ単に上手くしゃべれるようになりたい、役に立てたい、という思いはあった。
けれど、言語には人間が外界に触れ、それを表現する時の心の動き、世界の見方が隠されていることを知った。
人の心は言葉でできている、と思った。言葉を知ることは、人間が、どうやって世界と向き合っているのかを知ることだと思った。
それでも、大学生ごときにも色々なジジョウはあって、道を歩み続ける覚悟はできなかった。そんな疑問は、とりあえず置いておいた。
そんな疑問をとりあえず置いておいた私は、大学を出て、働いて、数年後、専門学校に入った。
鍼と灸、という原始的な道具によって、様々な病気に対抗できる、そのシンプルさがすばらしいと思った。
何せ石器時代から行われてきた医術なのだ。
直接人を喜ばせる仕事がしたい、そして、できるだけ手ぶらで生きていたいと思う自分には、ぴったりの職業だと思った。
すばらしい師にも出会った。偏屈で、へそ曲がりな、そして患者さんから絶大な信頼を寄せられている人である。
鍼が治療手段として機能する背景には、皮膚、神経、脳、これらが複雑かつ極めて巧妙に組み合わさったシステムがある。
実は、その全貌はいまだ明らかになっていない。
全貌どころか、今の科学でわかっているのはほんの一部だ。
ある程度のメカニズムはわかっている、しかし、肝心なところは、「きっとこうだろう」で説明されている。だからこそ、「気」とか「経絡」といったものが数千年の時を超えて使われている。(ただ、気とか経絡とかは私の専門ではないのでよくわからない)
そのために、日本ではアウトサイダーとして冷遇され、半ば疑いの目を向けられながら細々と世間の片隅で息をしている。
それでも、救われている人は無数にいるし、鍼灸が現代まで連綿と受け継がれてきたことが、ただのオマジナイではないことを物語っている。
触れるとは何か。
見えるとは何か。
聴くとは何か。
感じるとは何か。実はわかっていない。
全て、表皮、神経、脳が行っていることだろう。
目を閉じれば世界は消える。耳を塞げば世界は聞こえない。皮膚がなければ世界に触れることはできない。
つまり、感じることが人間と世界を結びつけている。
言語以前の段階、外の世界から感じることで人間がどう世界を見ているのか。
今目に見えている世界は、真実のものなのだろうか。
思い通りに動いているはずの自分の体は、本当にこの姿なのだろうか。
追いかけることを諦めていた自分の根源的な問いが繋がったのである。
「中国語も話せるユカイな鍼師さん」では終われない。
あと50年くらいは生きられるだろうか。
一歩でも、その謎に迫りたい、と本気で思っている。
[6回]
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