よく、
「雄大な星空を見ていると、自分がいかにちっぽけな存在かがわかるよねー。日々の悩みって本当に取るに足らないよねー、我々人類ってこんな小さな星の上で争っていて、つまらないよねー、ハカナイよねー」
などと言います。
誠にその通りだと思います。
グーグルアースかなんかで自宅の上空から、日本が一画面で収まるくらいに上昇を続け、さらに地球全体をクルクル回せる位に画面を縮小してゆくと、私たち地球に生息する生き物たちの微少さ、儚さ、どうでもよさを嫌というほど感じることができます。ため息すらこぼれるほどに。
憶測ですがグーグルアースのせいでかなりの人が憂鬱な気分に陥ったのではないでしょうか。
その地球ですら宇宙の中では一粒の塵でしかない。
「巨大」、という言葉で形容するには余りにも大きすぎる宇宙。
しかし、もしもその宇宙全部が、さらにさらに気の遠くなるほど巨大な生き物が喫茶店(的な場所)ですすっているコーラ(的な飲み物)に浮いている氷の一分子の中に存在する空間でしかなかったとすればどうでしょう。
もはや私たちなど、台所の隅で人知れず繁殖するブドウ球菌以下の存在なのです。
宇宙について、まだ私たちは映像や写真、野口聡一さんのインタビューを介して垣間見ることしかできません。
軌道エレベーターや月面・火星移住計画も遅々として進まぬこの時代、我々にとっての「宇宙の使い道」とは、自分の小ささを認識することにしかないのかもしれません。
しかし、「私たちはどうせちっぽけなのだ。大したことないのだ。だから目の前の事などどうでもいいのだ」
などと言っていれば、途端に仕事は取り上げられ、家族は失い、友人からは後ろ指をさされ、クレジット会社からは矢の催促が来るようになります。
平然とそうした環境に自分を叩き込める人種のことを「哲学者」と呼ぶのかもしれません。
私たちはやはり自分の身の丈にあった世界に立ち向かい、命をかけて取り組まなければ生きていけない。
自分に近い物は大きく見えて、遠い物は小さく見える、遠近感とはよくできた自然の法則だと思います。
自分にとって大きく見えるものは、大切。
小さく見えるものは、そうでもない。
そこになるべく客観的な立場で補正をかけてゆくのが、人間の想像力。
小さな、くだらない生き物であるおのれを意識しつつ、等身大の世界をしなやかに飛び越えていける、というのが、人間としての理想なのではないでしょうか?私はそう思うのです。
しかし、そのバランスというのがこれ以上ないほど難しい。
いつも宇宙レベルで物を考えていれば、胃袋が叫びを上げ始める。妻と子供が泣く。
いつも自分サイズで日々を暮らせば、窮屈で息苦しい。逃げ道がなくなる。
たぶん生涯、その両極の間で行ったり来たりをするのだと思います。
そしてどこか適当な所に自分の場所を見つけ、そこに具合の良い椅子など置いてひなたぼっこしているうちに、またいつか宇宙の一部に戻る日が来るのだと思います。
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