今、僕の目の前に、料理の本が一冊ある。中華料理の本だ。適当にページを開いてみる。「スープの種類」が目に入った。上湯、毛湯、頂湯、白湯という四種類が紹介されている。どうやらそれぞれに用途は異なるらしい。
僕は、今、四種類のスープがあるということを知った。
知識が一つ増えた。
だが、知識が増えるというのは何だろう。一つのコップから別のコップに水を移すのならわかりやすい。物質の移動があるからだ。
しかし、僕の脳の中に、「知識」という物体が入ってきたのではない。
さっき文字を見たときに、何か物理的なものが頭に侵入してきたかと尋ねられれば「いいえ」と答える。さらに不思議なことに、コップの水を移し替えるのとは違って、本に書いてある事柄も消えていない。
頭の中で回路がつながった、ということらしい。バラバラに存在していた一個一個のニューロン(神経細胞)が、目から入ってきた文字情報を受けて興奮し、お互いに手を伸ばしてシナプス結合をし、情報(電気信号)の交換を始めた。それが「わかる」「知る」の正体らしい。
僕たちの頭脳の中には、産まれた時から「全て」が入っているようだ。全て人間の知識、智慧というのは、ニューロンの組み合わせで決まるということらしい。
しかしそれでも僕にはわからない。なぜニューロンがつながれば、「わかった」ことになるのか。
よく考えればコンピューターも同じだ。ネットにつながっているからといって、ケーブルから何かがじゃんじゃん流れ込んでくるわけではない。電気信号がなにやらピコピコやっているだけだ。
それでも私が見ているスクリーンには、この世のどこかにあるらしい、見たこともない風景が映し出されている。これも細かく見れば、赤青緑の光の点の集合でしかない。その組み合わせが、「画像」なるものを作り上げ、私たちが「風景」として認識している。
何かを「わかる」ということも、これと同じことだろうか。一つ一つでは意味のない情報が、ある規則をもって組み合わさることで、そこに「意味」が生まれる。
意味を与えるのは、僕たち自身だ。
それでは、「意味」とはどこでどうやって決めるものなのだろうか。やはりわからない。 [0回]
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